2025.6.1
勝興寺の万葉歌碑
「海ゆかば」の歌碑に加え勝興寺には他にも2つ歌碑があるので訪ねてみました。
一つは
本堂左横の
あしひきの 山の木末の ほよ取りて かざしつらくは 千年寿くとそ(大伴家持、巻18・四一三六)
750年のお正月に、越中国庁において家持が催した宴での歌だそうです。
「ほよ(寄生」)は落葉樹などに寄生する「寄生木(やどりぎ)」のことで落葉樹が葉を落としても葉を繁らせている姿に、生命力の強さを崇めているそうです。
「かざし」は頭や髪にかずす(さす)ことでやどりぎをかざして長寿を願うお正月にふさわしい愛でたい歌だそうです。
もう一つが
境内地北西の角の寺井の池にある歌碑で
もののふの 八十少女 らが 汲み乱ふ 寺井の上の 堅香子の花(大伴家持、巻19・四一四三))
堅香子(かたかご、カタクリ)の花は私の大好きな花の一つでもあります。
ちなみに万葉集に「堅香子」が出てくるのはこの一首のみ。
堅香子は高岡市の「市の花」でもあるそうです。
2025.5.31
万葉歌碑ー海ゆかば
今回の伏木訪問は勝興寺の鼓堂横にある万葉歌碑が目的でした。随分前に万葉歴史館を訪れた際「海ゆかば」の銅板を見学、今回はその関連での訪問です。
その歌碑、
境内側の面には「大伴家持卿天平感寶元年五月十二日越中國守館に在りて長歌を作る・・・」、「昭和十二年八月四日皇軍北平入城之日」とあり、昭和12年の日支事変(盧溝橋事件に端を発する日中戦争、支那事変)で、北京攻略を記念して建立したものとあります。
裏面は、長歌の一部
雲美由可者 美川久可波祢
也未遊可波 久斜武春閑者祢
大君能 辺耳古所志那女
駕弊利見者勢之
うみゆかば みづくかばね
やまゆかば くさむすかばね
おほきみの へにこそしなめ
かへりみはせじ
(万葉集巻十八 4094番)
となっています。
天平21年(749年)、平城遷都にあわせ、都では大仏建立が本格化した折、陸奥国(みちのくのくに)から黄金が献上されました。
聖武天皇は造営中の大仏の前でよろこびと感謝の宣明を読み上げさせ、年号も天平感宝(かんぽう)と改められました。
この宣明の中では大伴・佐伯両氏の武門が特に讃えられ、祖先以来「海行かば水浸く屍、山行かば 草生す屍、大君の辺へにこそ死なめ、長閑(のど)には死なじ」をテーゼとしてきた名門家系に対し、今後もその変わらぬ忠誠の期待が述べられています。
その宣明を受け、感激した大伴家持は、万葉集では三番目の長さとなる長歌と反歌「陸奥の国より金を出せる詔書を賀(ほ)く」を詠み、その一節が「海ゆかば」で、最後の一行を大伴家持は「のどには死なじ」から「かへりみはせじ」と変え決意を示したわけです。
当時、大伴家は新興勢力の藤原家に押されていたといわれ、そういった状況の中で天皇の宣明に対し、氏の長として一族の誓いを込めてこの歌を詠んだものといわれていますが、それが国民全体による戦意高揚を目指した歌に利用されたのですね。
ちなみにNHKアーカイブスに第二の国家といわれた「海ゆかば」の1937年当時の歌と映像があります。ここでは当時、国民精神総動員強調週間を制定した際に「放送協会の嘱託を受けて信時潔が作曲、本来は、国民の戦闘意欲高揚を意図して依頼された曲だった」とあります。大伴家持の万葉歌はいわば利用されたことがよく判ります。
なお信時潔は、文部省唱歌「一番星みつけた」などの作曲でも知られるほか、沢山の校歌の作曲も手掛けられ、我が故郷の石川県では金沢大学(作詞は室生犀星)や県立桜丘高等学校、県立羽咋工業高校、県立小松商業高等学校、松任農業高校(2000年より現・県立翠星高等学校、現在の校歌は代わってますね)、金沢市立紫錦台中学校、金沢市立菊川町小学校(金沢に住んでいた時の近所でしたが2019年に閉校)などがあります。
他、専修大学の校歌や慶應義塾の塾歌、学習院の院歌も信時の作品ですね。全国に沢山あり驚きました。
ボランティアガイドさんのお話では毎年海上自衛隊の方々が清掃に訪れているとのことでした。
本来は別の場所にあったものが移されたとも聞きました。ただここの歌碑は達筆の方が揮毫されたので読みにくいかもとも言ってました。
ちなみに金を算出した宮城県涌谷の天平ろまん館についても2度ほど訪れましたが、旅先で何気なく訪れた場所が、こうやって線としてつながっていくのも行き当たりばっ旅の醍醐味の一つでもあります。
2025.3.12
見た、切った、貼った-宮脇 綾子 展
久しぶりに見た日曜美術館「あ!ボロの中に美を見つけた 宮脇綾子のアプリケ」に触発され、東京ステーションギャラリーに行ってきました。
東京駅も久しぶりでしたが、開館前からの大行列、参観者の関心の高さがうかがえます。
市井の生活者の手仕事の美に惹かれます。
作品数や多様性、目の付け所に圧倒されました。
アップリケといえば岡林信康の「チューリップのアップリケ」が泣けますが、随分昔に白馬山麓のスキー場の宿かどこかで買ったアップリケも長年愛用(寝袋に縫い付け)しています。
また古布を利用したものでは故郷石川県の白峰に伝わる裂織のシャックリバトを思い出します。石徹白の「たつけ」と共にバトを紹介しています。
また昔、香港の山仲間とチベット旅した時、メンバーに土建会社の現地法人の奥さんが飛び入り参加。このおばちゃんボロ布収集が趣味でラサやギャンツェ、シガツェのあちこちで古布を買い集めていたけど、あのおばちゃんそれらどうしてたんやろなー。
2024.3.2
「花と竜」(日活、1962年、監督・舛田利雄)
先のブログの通り中村哲の叔父にあたる火野葦平原作の映画化・日活版をアマゾン・プライムで鑑賞しました。
中村 哲の祖父にあたる玉井 金五郎を石原 裕次郎が、祖母にあたるマンを浅丘 ルリ子が演じていました。山本 作兵衛の絵とはまたべつに、映画の世界で描かれる当時の石炭産業に関わる、特に港湾での荷役労働者たちの様子がうかがい知れます。
写真は2022年12月末に訪れた田川の石炭歴史博物館内の「花と龍」(高倉 健主演版、東映、1969年)の看板と映写機。
2024.1.29
東洋文庫ミュージアム
1月11日付け東京新聞に紹介されていた(司書記者の旅をする本棚)文京区の公益財団法人のミュージアムに行ってました。
さすがに東洋に特化した文化と歴史に関する文献資料の宝庫ですが、圧巻は新聞にも紹介されていた「モリソン書庫」。
圧倒されながらも落ち着く佇まいに、特等席のソファーで目をつむり歴史と文化たちの囀りに耳を傾けてきました。
東大阪市の司馬遼太郎記念館の書棚も圧巻でしたが、異なる空間とはいえ似たようなにおいを感じました。
2023.12.03
神楽と利休饅頭と鮟鱇の肝缶詰
ひょんなことから石見神楽の鑑賞へ浅草公会堂へ。
これまでも浜田市の亀山社中の東京公演は毎年行われていたそうですが、コロナ禍の影響で今回は4年ぶりとなったとか。
随分前に浜田周辺の道の駅で石見神楽は少し鑑賞して以来、今回本格的どんちっちを堪能出きました。開演前には浜田市長のあいさつもあり、浜田市のバックアップぶりもさすがでしたが、会場で販売されていた浜田の名産にも嬉しくなりました。
旧ブログでも紹介しました利休饅頭と鮟鱇肝缶を入手できなによりです。
2023.03.24
満蒙開拓平和記念館で「一九四六」
個人的に義務としての旅の一つとして掲げていました「満蒙開拓記念館」(長野県阿智村)に伺ってきました。
しかも1月に東京で開催された時は失念してしまった「一九四六」展に合わせてです。
まず記念館間について驚いたのは「一九四六」展の影響でしょうか?駐車場がいっぱいで、記念館前にはテレビクルーも見られました(NHKの「信州 NEWS WEB」)。
館内には80代、90代の引き揚げ者をはじめ、高校生のボランティア(長野県松川高校ボランティア部)など沢山で賑わっていました。
大作「一九四六」を鑑賞し、会場に見えられていた王希奇さんとも握手をさせていただきました。
加藤登紀子は1月の東京北区での開催に続き阿智村での開催にも駆けつけていただいていますね。
2023.02.15
ETV特集「消えゆく“ニッポン”の記録〜民俗学者・神崎宣武〜」
ETV特集を見るためにNHKの受信料を払っているといっても過言ではない番組ですが、先日(2023年2月11日放送)の表題番組では、宮本常一に師事し司馬遼太郎とも交流のあった故郷・岡山県美星町の宇佐八幡神社宮司と民俗学者の二足の草鞋を履く(今風なら二刀流)神崎宣武さんでした。
吉備高原に含まれる矢掛町に友人がいることや岡山市内に息子が、津山にも山の先輩が住んでいることもあり、この番組でとりあげられた吉備高原一帯の民俗にはたいへん親しみを覚えるものがあります。
「吉備高原の神と人・村里の祭礼風土記」(神崎宣武、中公新書、1983年)や番組でも取り上げられている備中神楽は2015年11月に矢掛で鑑賞させていただきました。
2023.02.14
伊豆の長八美術館
左官の神様ともいわれた伊豆の長八のことを知ったのは2015年に吉祥寺、武蔵野市立吉祥寺美術館で開かれていた「生誕200年記念 伊豆の長八 ―幕末・明治の空前絶後の鏝絵師」がきっかっけでした。
以来、3、4度、松崎を通過しながらも、長八美術館には立ち寄れず、ないしは休館だったことでその機会を逸していましたが、この度ようやくとなりました。


